ボンヴィヴァン(伊勢外宮前 ボンヴィヴァン)

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プロフィール 河瀬毅 


■母(07.01.06)

「お前は来るんじゃない!」兵隊さんはもの凄い剣幕で怒鳴り、僕を列からはじき飛ばした。
小学校に上がる前、僕は小児性リウマチと言う難病で日赤病院に入院していたのです。
医者にそろそろ親族を集めたほうが良いと言われたそうです。
毎晩毎晩同じ夢を見ました。不思議な夢です。
どこが先頭でどこが末尾でもない。帯のように緩やかにうねりながら何人もの人たちが列をなして歩いています。
おじいさん、おばあさん。僕の父や母と同じ位の人もいたし子供もいました。
みんな一様に押し黙ってどこを見るでもなく黙々と歩いて行くんです。僕は毎晩毎晩うなされました。
何故かと言うと連中は、寝ている僕を、さも道端の石ころのように踏んづけて謝りもせず黙々と進んで行くからです。
ほとんどが兵隊さんだったような気がします。僕の事などまったく眼中にない彼らの半長靴(はんちょうか)は、容赦なく僕の頭の上に下ろされました。痛い痛い!あまりの痛さに目を開けると、そこにはいつも優しい母の顔がありました。
目を覚ました僕は、「兵隊さんが僕の頭を踏んづけてくる!」と、泣きながら母に訴えていたのを覚えています。
母の困惑した顔。でもその頃のとても大切な事を僕は、どうしても思い出せないでいます。

「カラスの赤ちゃん何故鳴くの。コーケコッコのおばさんに赤いお帽子ほーしいよ、赤いお靴もほーしいよっとカーカーなーくのね」
これは、いつもの僕への子守唄。耳に張り付いて離れません。
そして実は、もうひとつ僕への目覚め唄があったのです。しかも母の自作で。
毎晩うなされていた僕を母は、声をかけるでもなく肩をゆすって無理矢理起こすでもなく、ひたすら僕の耳元でその唄を唄ってくれました。
パイプベッドの塗装が剥げた角の擦れや牛乳瓶に入った活け花の色なんかは覚えているんだけど・・・
あの目覚め唄はどういう訳か忘れてしまいました。僕の命を救ってくれたかけがえのない唄なのに・・・
ある夜、又うなされたんです。同じ夢。あんまり痛いもんだから僕はふとひらめきヨタヨタと立ち上がり、列に加わろうとしました。一緒に歩けば踏まれる事はないんだから・・・と。ザッザッザッ。上手く流れに乗りました。
10歩進んだでしょうか。
安心するやいなや、それまで無表情だった真横の兵隊さんがクルッと顔を僕に向け目を見開き、冒頭の言葉を投げつけたんです。
列から外されてしまいました。恐くて、もうそこには戻れない。寝場所も無くなった。・・・どうしよう・・・・。
途方にくれて立ち往生していたら母のあの目覚め唄が、どこからともなく聞こえてきたんです。
母ちゃん、どこで唄っているの・・・?フラフラとあてもなく彷徨い、唄声がする方へと足を進めて行きました。
そして目を開けて母を見つけたんです。
あの時、母は泣いていたのかな?それともいつもの微笑と一緒に僕の頭を撫ぜてくれていたのかな?
やはり、どうしても思い出せません。あの唄と一緒に忘れてしまったようです。僕と母しか知らない目覚め唄。
もう一度母の口から聞きたかった。

認知症の母を介護している父が自分自身の検査のためにしばらく兄の家に滞在することになりました。
僕は母を預かってもらっている施設を訪ね、車椅子に座り首をうな垂れて独りでポツンと居た母に近寄りました。
「母さん」と声をかけて手を握り背中をさする。
頭(こうべ)を上げるのも重いのか目だけをゆっくりと動かし僕を見てくれた。
でも僕の事はもう忘れてしまったようだ。背中をさすられて気持ち良さそうにしている。
指を立てて軽く頭を掻いてあげた。
自分で少しづつ頭の位置をずらせてきたから、もっと掻いて欲しいのかもしれない。
すみませんなあ、ありがとうございますと母が呟いた。
母さん、僕はどこのどなたさんでもない。あなたが愛した息子、タケシですよ。
僕は仕事で、朝から夜中まで働いても何の苦労も嫌もなかった。
でも朝から夜中まで働いていると人を介護することは出来ない。僕は生まれて初めてこの職業に疑問を持ちました。
母さん、僕は親不孝者ですか?せっかく育ててもらったのに父母が大変な時に何にもしてやれないんだから。
僕は、死の行進から救い出してもらったのに、母を助ける目覚めの唄は持ち合わせていない。
神様は、何故人から思い出を奪うのでしょうか?
死は恐怖だとは言いがたい。生きてきた証しとして隣り合わせに存在するもの。なんびとも記憶があるままに天国へ旅立たせてはもらえないんでしょうか?
僕は運動会のかけっこで一等賞を取った。6年生の女の子に手を引かれて1等の旗の竹ざおを左手でつかみ会心の笑みで母に向かって手を振った。僕は覚えているよ、その時の母の自慢げな顔を。
僕は中学に入っても小さかった。本来なら学生服は特7号で丁度良いのに、兄ちゃんも大きいからタケシもすぐ大きくなるよと9号を着せられた。2年になってもブカブカだった。僕は覚えているよ、母の心配げな顔を。

高校生になった僕は、家を出ようと決心して着々と準備をすすめていました。どういう訳か母に見つかりひと悶着。
僕は絶対譲りませんでした。そんなに出て行きたいのなら写真を撮ってから出て行きなさい。僕は電報電話局の前の写真館で遺影を撮らされてから旅立ったのです。・・・あの時の母の悲しそうな顔。
そして、二十歳になった僕は大学生とアルバイトのコックをかけもちしていました。
母に、バイトが忙しくて成人式には帰れないと伝えておいたら、下宿に届いた一通の現金書留。
成人式に出られず可哀相だから、これで好きなものを買いなさいとお金と一緒に添えられた手紙に、僕は、母を想いしんみりとしたっけ。
母さん、あの時はありがとう。僕はLPレコードを何枚も買って寂しさをまぎらわせたよ。
そしてまだ残ったお金は、競馬でスッテンテンになっちゃいました。・・・やはり僕は親不孝者ですね。

そんな僕も結婚して母はおばあちゃんになった。無邪気な孫達に囲まれた無邪気なおばあちゃん。
神様、どうかそんな全ての思い出を母に返してやってくれないでしょうか?しっかりと生きてきたご褒美として・・。

人は老いる。そして天国へと旅立つ。いつしか僕も老いて朽ち果てる時が来るだろう。今日まで無我夢中で
料理のことだけ考えて突っ走って来た身にとってこの現実は、やるせない。
僕は何?今まで人の倍働いた。それで何?長年のワイン漬けで僕の脳は記憶を消去してしまうかもしれない。
やるせない・・・。・・・いや、人は人に思い出を残す生き物。僕は感傷に浸っている時ではない。
僕は人々の記憶に残る料理を作りたい。
どこかのお婆ちゃんが、天に召される間際でも、そういえば伊勢神宮の前にあるレストランのあの海老料理を
もう一度食べたいなあと思ってくれるような料理が作りたいんです。
味付け?組み合わせ?調理法。サーヴィスの力かも知れないし、案外皿の図柄に喜びを感じたりして・・・。
考える事は一杯で。やはり2007年も僕は、突っ走ることにします。


 

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