ボンヴィヴァン(伊勢外宮前 ボンヴィヴァン)

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プロフィール 河瀬毅 


■あみちゃんへ(06.11.14)

もうそろそろ書けるような気がしてペンを取りました。あの悲しみから2年になろうとしているのですから。
2年前の冬、わたしは荻窪の教会通りの小路をトボトボ歩いて、天沼教会の前でボンヤリと佇んでいました。
シェ・ジャニー時代の先輩の奥さんが亡くなったという知らせを聞いて・・・。
信じられない気持ちで新幹線に飛び乗りはしたけど、いたずら好きなよっちゃんの事。
「バーカ。騙されてやがんの!」なんて物陰からいつもの笑顔で飛び出してくるんじゃないかと願ってたんです。

でも、そこには人、人、人。そして涙。涙なんてもんじゃない。号泣。しゃくりあげている。子供も大人達も。
これは、現実なのだ・・・
私は、その涙の輪をくぐり抜けて葬儀の会場へと足を進めました。祭壇に白い花。それも今までに見たことも無い
あんなに沢山の白い花。悲しみが渦巻く中に、泣き声と沈黙と白い花。
天沼教会での葬儀は崇高で厳粛で見事なまでに美しくそして深い深い悲しみに覆われた辛い儀式となりました。
長男が挨拶をした。この子が、小さい頃を知っている。目がクリクリと大きくて本当に可愛い子供だった・・・
もうこんなに立派に成長したんだ・・・悲しくて奈落の底にいるはずなのに必死でマミーとの思い出を
語ってくれた。

次男が挨拶をした。彼のことは、知らない。でも君の事はよっちゃんから聞いてるよ。
甘えん坊でちょっとお調子者かな?それなら君は、パパにそっくりじゃない。
マイクの前に立ち、彼はこう切り出した。
みなさん俺は、まだガキだから綺麗に着飾った言葉で挨拶が出来ないんだ。悪いけどいつもの俺でマミーと話を
させてください。そう言うやいなや一気に言葉が溢れ出た。俺は優しくて美しいマミーが自慢だった。小さい頃は
マミーにべったり引っ付く甘えん坊だった。運動会も元気一杯応援してくれて、いつもの100倍の力が出た。
お弁当は色彩豊かで美味しくて、みんなに見せびらかして回った。どんなにクラブの練習で疲れても、学校の成績が悪くて落ち込んでもマミーの笑顔で救われた。楽しかった家族旅行。そしてもっともっといっぱいマミーと旅行がしたかった。もうみんなで一緒に行くことは出来なくなっちゃったけどマミーは、俺の心の中に居る。
俺はちっちゃい子供じゃなくなったから照れくさくて言えなかったんだけど、愛してたんだよマミー。
これからもずっとずっと愛してるよ。
彼は、真っ赤な目を会場に向けてペコンと頭を下げてマイクから離れた。
私は、これ程堂々として泣き、ありったけの悲しみを言葉で表した二十歳前の若者に会った事はない。
母のない子は淋しいかもしれない。でも最愛の母親を亡くした子供の心境は計り知れない。
会場は涙で埋もれた。

そしてよっちゃんが登場した。ジャニーの元で一緒に働いてからかれこれ25年が過ぎている。
彼とはジャニーのスーシェフが六本木で独立した店でも一緒に頑張った。よく遊んでもらったなぁ・・・
カジノや、クラブ、当時は、カフェバーと呼ばれていた霞町の交差点辺り。今は、西麻布なんて地名になって何処の事かピンと来なくなってしまった。
芋洗い坂を下っていくと右側に当時売り出し中のスターシェフ石鍋さんのロティウスがあり、そのまま直進して角にイタリアンレストランのボルサリーノ。ヒデと呼んでたシェフはかっこ良かった・・・。お互いに客を待っている間、厨房で麻雀やオール(賭けトランプゲーム)をしたっけ。車が好きで真っ赤なルノーサンクアルピーヌに乗っていて、
(後にフェラーリディノに乗り換えた)当時私は同じ車種の黒色だったので気が合ったのお覚えています。

数年後、彼はアメリカに渡って大成功したシェフとしてテレビで特集された。 テレビの中で運転していた車は白のポルシェカレラ・・・相変わらずな奴です。オー・ヴェールプレと言う私達が居たレストランは、ボルサリーノの角を曲がったところ。
ちなみにボルサリーノのマネージャーだった青山君は、赤のアウトビアンキ アバルトA112でしたね。
シェフのケンさんは、ジャニー時代のトップで車は、ミニ丸山チューンのデトマソミニ。
よっちゃんはBMW1502。(これが古くて抜群の雰囲気でした)
スエーデンセンターあたりは、ヨーロッパ車が集まり中々良い風景でしたよ。雑誌の撮影でも使われてました。いつだったか自分の車のボンネットに無断で腰掛てカメラマンにポーズを
取っていた若い有名タレントに思いっきり怒ったよっちゃん。(彼は有名タレントが誰なのか知りもしないんです)
飯屋に入り壁に貼ってあるメニューを見て指差し、お姉さんに「ねえ、だいかいろうていしょくって
何が入っているの?」(大海老定食)って大真面目に聞く人なんだから。

そんな人が今、涙を堪えて立派に挨拶をしている。
死を覚悟した妻を車椅子に乗せ病院の屋上で夜景を楽しんだ。
その時妻が、私はよっちゃんと結婚して本当に幸せだった。よっちゃんのおかげで楽しい人生と優しい子供達に恵まれた。本当にありがとうと言ってくれた。
ジャニーがコンソメスープを届けてくれて妻は大感激をして涙を流し美味しい美味しいと飲み干した。よっちゃん私は幸せ者よ、ジャニーのスープが飲めたんだよ。
そして数日後、妻は息を引き取った。

と、話した。
それはそれは悲しくて感動的な挨拶でした。
私は、涙を拭いて最後のお別れのために棺へと歩み寄り、安らかな顔の隣に白い花を一輪添えた。
あら、久しぶり!もっと顔を出さなきゃだめじゃない。あみちゃんの明るい声が聞こえたような気がした。
休みの日に押しかけては、よくご馳走になりました。夫婦同士で行った沖縄旅行も楽しい想い出です。
ねえ、あみちゃん、50やそこらの若さででなんで死んじゃったの?
超有名な洋画家を祖父にもち、自身も画家として活躍していた。モデルのような美貌の持ち主でそこんところはよっちゃんの自慢だったね。
でも私が感激したのは、中学生の時ビートルズを見に鹿児島から武道館までやって来たという話。
音楽を愛し、美術を愛し家族を愛し愛された人は、もういない。


遺族が並ぶ前を通った。目が合う。すまなかったな、遠いのに呼びつけて。何を言ってるの。そんなことより
凄く立派だったよ。私はこれだけ言うのが精一杯で、足早にそこを離れた。
そして群集の中からあの方を見つけたのです。ダブッとした黒いコートを羽織り眼光鋭い男。
綺麗な女優さんを連れていました。
コンソメスープをあみちゃんに飲ませてあげたんですね、ジャニー。

近寄って挨拶をしてご無沙汰の不義理を詫びました。しょうがねーじゃん。忙しいんだからさ。それより何か美味い物でも食いに行こうぜ。・・・悲しみの中でもジャニー流・・・私たち総勢6人。
着いたのは阿佐ヶ谷の中華料理店。
なんの変哲もないような店なのにどうしてこんなに美味しいの?と言うよりどうしてこんな穴場的な店を知ってるの?
前菜のくらげは身が厚く透明感のある料理だったし、フカヒレにいたってはやはり25年前に連れっていただいた櫻外櫻(ろうがいろう)の料理と遜色ない出来ばえ。ジャニーが注文するマニアックな料理の数々に舌鼓を打ち夜は更けて行きました。

それから再び始まったのです。ジャニーとの交流が。
空白の時間を埋めなさいとあみちゃんが引き合わせてくれたのかも知れない。
疎遠になりかけてた私を繋いでくれて感謝しています。



 

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